昭和45年03月19日 夜の御理解
世の中の全ての事がなるようにして言わばなっておるのでありまして、決してどうしてその様な事になるだろうかと言う様な事は、決っしてあろうはずはないのです。例えば災難にあうのは、または病気になるのも、必ずそのなる様にしてなっておるのであります。支那の言葉に「全積善の家に予定あり」と言う様な言葉があります。積善とは徳を積むと書いてある。余慶というのは余分の余けいは慶びであります。
ですから例えばなら慶びを事があると、いわば幸せになっていこう幸福になって行こうと言うても、それにはやはり積そのう積善、善を積んでおると言う様な元があって、いわば幸福になっていくわけですね。ですからもう決っしてそのうどうしてと言う事はない。これは私達がこれほど信心するのに、どうしてこの様な事がと言う様な事があってはならない。そこを知らぬ私共はあのう、教祖様はやれ痛や今はみかげをという心になれと、こう仰っておるですね。
と言う事はどう言う事かていうと、そう言う例えばやれ痛やと言う様な、いわば痛い痒いの事に至るまで困ったと言う様な事がです、いまこそめぐりのお取り払いに頂いておるんだと、思うてお礼を申し上げるていけと教えておられる。そう言う生き方の上にですね、そう言う生き方の上にやはりおかげを頂く事になるだろうと、修行生しておかげを頂くと言う事、それはね、やはり人間と言うのはそのう、是がおかげと言った様なおかげの印ぶん、このう見せて下さらんと神様は力がない様に申しますから。
それこそ神様の権威にかけても、奇跡を見せると仰る様な事になって来るんですね。ですからそのう神様の権威にかけて、奇跡は見せて下さるのであってですね、あのうそれは本当の意味のおかげではない、神様を分からせるたいばかりの、いわば奇蹟おかげなんです。今日私久留米の霊祭を奉仕しましてね、が非常に疲れましてね、帰ってから休ませて頂いた。休まして頂いておったら。
ちょうど久富さんの奉仕を受けて、足を揉んでもらいよりました、したらあのう御免下さい御免下さいというてから、部屋の外から誰かおらびよりますもん。で入っていいよって言ったから入って来ました。若い娘さんの声と思うたら、まぁ娘さんじゃないんですけどね。もう子供が二、三人ぐらいおりましょうか。若いなら嫁さんで松岡えぇとなんとかいよったねぇ。いませいは順子さんじゃね堀江のせいじゃなくて、ならあのう今日は久留米まで、福岡に現在おるですけど。
久留米まで商用でまいりましたから、ちょっとお礼に寄りましたと言うて寄ったんです。まだ若こうして綺麗にしてるんですけれども、ちょっと先生にお目にかかりたいちゅうてから、まぁ私休んどるところへ枕元に来てから、まぁいろいろおかげを頂きょりますというてからお礼に出て来ましたが。この人が丁度17,8年前だったでしょうかね、まぁだいやぁ本当の娘十幾つかの娘時代でしたけれど。この目にあれは機関銃じゃない、なんか空気銃か、機関銃じゃない。
空気銃の弾が眼に入りましてね、もうあのう医大に参りましたら、手術は出来るけれども失眼するかしないかと言う事は、請け合えないと言う事でした。それで大変ここでおかげ受けた人のお導きによって、お参りをして来るようになり。もう一週間は動くと痛いように、うずき奔るするんですよね目の中が。ですからそのう、まぁ手を引かれてからそのうお参りをしてきょりましたが。一週間目にねそのうお夢を頂きましてね。誰かがそのう目を手術して下さってある。
そしてそのう空気銃の弾と思われる様なのを、手の平に載せてこれじゃったろうがと言うて下さった。それはお夢じゃった。それっきり痛みが止まったんです。それからまぁ半年もしとるうちにここに傷口も綺麗に治ってしもうて、もう綺麗ぇになりましたがね。そげな事があるじゃろうかと。けれども事実あってこうしてしかたがないですね。弾が入って事はもう医大で証明してるんですよ。それがうずき出してしとった事もある、そう言う事があってですね。
おかげを頂いてからやはり神様が手術をして下さったと言う様に、なら言葉で言うより外には言い様がない程しにおかげを受けた人なんです。だからそう言うおかげを受けておるからです、受けたから信心が出来ると言う事じゃないです。それこそまぁもうあの時の御恩は忘れられんです。久留米までちょっと来たけんちょっとお参りさせて頂いて、ちょっと先生のお顔を見て行きたいと言う程度の信心ですからね。ですからそう言う奇蹟的なおかげを受けるという事だけが、本当に人間の幸せに繋がるものではない。
そこで今日私が言う、全ての事がある様にしてあっておるのであるから、その元を分からしてもらう、その元を断たせてもらうと言うのがめぐりのお取り払い、やれ痛や今みかげをと言う心にならせて頂いて信心を続けていく内に、積純をしていくね良い徳を積んで行く、そこから余計がありね、思いもかけない喜びが頂けれる様なおかげになってくるんだと。そういう事分けそう言う道理を分からして貰うて、信心をさして頂くと言うのでなからなければ、私本当なおかげじゃない。おかげにゃ繋がらないと思うです。
ただ神様の権威を見せて下さる事のためにです、はぁやっぱり神様ちゃござるんだなと言う事を見たり聞いたりする。する事によって神様をおぼろげながら分かる信心を分からしてもらう訳でありますから。分ったらその神様の働きがです、いわゆるどう言う働きかと言うと、氏子信心しておかげを受けてくれよ、氏子信心して幸せになってくれよという、その願いを受けて、そう言う願いにもとづいた生き方、いわゆる積善の生き方。徳を積んでいく生き方。そう言う生き方を段々分からして頂いて。
そうして徳を積んでいきながらも、過去におけるところの、めぐりの取り払いを適当に、お取り払い下さる。今日この人も、もう本当に20年前までは、まぁ大変困っておりましたがね。植木屋さんんです。何町歩と言う杉苗を植えてあったところがね、枯れてしもうたんですよ全部、もうそれが枯れてしもうらもうその苗を出されなかったら、自分方はもう終えるちゅうぐらいにあったんです。それで始めてここん事を聞いてからお願いにみえましてね。
もうだから家にも寝られんです。山小屋ん中に寝てからですね。そのうまぁいろいろまぁいうなら水をかけたり肥やしを掛けたりして、どうか知らんですけど、とにかく手を入れるために、もう山小屋に泊り込みででしたけれども。もう枯死寸前だったんです。それからお願いに見えましてからね、お神酒を頂いてお神酒を御神お水の中に入れてそれをずぅうっと蒔かれたんです。それこそ今言うとですねぇ。明くる朝山小屋に泊っておられますからねぇ。
それこそ嘘じゃないかと言うごと、今まで枯死寸前んじゃったとが生き生きと青う明くる朝なっとったっちからみんな。腰が抜けたっち。それを見てから。そう言うおかげを頂いたひとなんです。そりゃもうもちろん今も熱心に信心が続いとります。もうそれからと言うものはもう本当に、山をまぁ売ると言えば買うと言えば、いちいちお伺いをしてからでしたが。買えば、買うときは安うか売る時は高かちゅごたるふうでもう、とんとん拍子でおかげを頂きましてね。今度は苗木やさんになって。
それこそ何年目にかにゃもう立派なそのうお城の様なお家が建ったんですよ。ところがですね。御主人が不思議な不思議な病気になったんです。もう本当に死ぬと言う外ないと言う様な病気んんです。今日もその事からまた息子さんが、それと同んなじ様な状態にあるですよ。お父さんと。それでそのお母さん大変その事を悩んで、今朝からお届けがありましたが、頂きます事がね。荒というしんじだったんですね。荒いと言う字ですね。草冠に亡くなってこう三つ流れと書いてあるんですよね。
だすからねぇ私もそのう方に、あぁたん所は信心も出来んのに言うならばおかげを先に、あんなおかげを頂いたんだと言う事です。だからねもうそう例えば、そう言う例えばおかげもですなからんとですね、神様がおかげ頂かしきりなさらん事を思いますから。もう頭とどう言うご都合か知らんけれども、ぽつんぽつんとではあるけれどもです、それこそ水膨れ的なおかげを頂いておる家もあります。けれどもそりゃやっぱり水膨れ的なおかげですから、こう膨れたるごたるばってん中は空ちゅうごたる。
ちょっとつつきゃちゃらっとぴらんとなってしまうと言った様なおかげです。ですからそれでもやっぱ神様はおかげ下さってから、中身にそのう本当なものを積めさして下さろうとするその働きがです、やはり荒々しいまでの修行が、その家に起こっておりますね。いまのその植木屋さんの場合でもそうですよね。草冠と言う事は自然と言う事でしょうが、自然になくなっていく。そういうおかげをそのうおかげたらしめるためにですね。その荒々しいまでのお取り払いがあっておるのですから。
主人の事だって息子さんの事だって、それこそやれ痛や今みかでをという気持ちになって、お礼を申し上げていく以外にありませんと言う事であった。ならいまそこで水をくれと言うたのもそうですけれども、ねこれは私があるその人の家の宅祭に参りましてね。まず御祈念をさして頂いとったら、そしたらね。今年はもういよいよおかげを受けれると言う年だと、土建屋さんです。
だから今年はもう言うなら充分におかげを頂き、その代りにおかげを受けたら、その後のしっかりした信心が必要であると言う、いわゆる御理解じゃったです。そしたらあの年があのう大洪水だったんですよ。さぁ土建屋さんはもうほんなこて、あのう瞬く間に膨れ上がる様なおかげを頂いたんですその人の家は。だから私があんたげんた水膨れよっと私がいうた。だからしっかり信心せんと行かんよ、けれども、膨れるばぁっかりでおかげを頂くんです。
さぁところがね、ところがそのう内輪の中にはもうどうにも、苦労それこそ荒々しゅうお取り払いじゃないけれども。それこそまぁそれこそ難儀な問題ですよね。家庭的な。がづぅっと続いておるです。だからそこんところほんに気付かせて頂いて一家中の者がね、さぁ自分のやりやりょうがよかけん儲けだしよると思よる。ところがいくら儲け出たところで、人間の幸せにはつながらないと言う事。夫婦の間に親子との中に、様々などうにもこうにも出来んほどの難儀な問題を抱えております。
それをすこぅし最近はまぁ気付いて行きょる様に思うな信心が続いておるんです。だから皆さんどうですかおかげをね、先にぱぁっと頂いて後からぼちぼちお取り払い頂くよりかです、今朝当りからの御理解の様に
途中末尾切れ。